おこがましいようですが、京都を拠点にしていると
世代や文化を超えて多くの人の心を惹く建築や
そんな建築デザインは何が違うのだろうか?
などということを考えてしまいます。
さて。。。。
プロポーションの良い寸法体系などが思い浮かびますが、それだけでもなさそうです。
そのヒントは日本の建築にも見出せるはず、です。
数寄屋と呼ばれる、主に茶の湯の美意識に基づいた茶室や住宅などの建築は、日本で16世紀以来、文化的教養ある権力者や富裕層の建築としてつくられ、150年ほど前からは文化や民族の枠を超え多くの外国人にも評価されています。
そこで数寄屋建築について少しみてみます。
その分野の研究者としてご活躍された中村昌生氏によれば「珠光紹鴎時代之書」という古書に、デザインの神髄が次のように書かれているようです。
座敷の様子
異風になく
結構になく
さすがに手ぎわよく
目にたたぬ様よし
現代語だとおよそ次のように解釈できます。
(デザインは)
人目を惹く意図での
風変わりな表現は避けること
豪奢に見えないこと
それでいて洗練されていること
謙虚さがあり
他と競うようなところがないこと
ここで着目したいのは、倫理的な次元を含んでいると思われる点です。私たちの創造欲を、主観的な好みや欲の表現を超えた価値、言い換えるなら、世代や文化を超える価値、善の方向に添わせています。
実際には、例えば高さ寸法と屋根デザインにこの原則が見て取れます。高さと屋根デザインによって建物の印象が大きく変わるので、数寄屋の場合、一般的に高さをなるべく低く抑えること、そして庇をつけることで屋根のヴォリュームも抑えて、威圧感やいかめしさのない佇まいにすることが多いと言われています。
「風変わりな表現は避けること」なおかつ「洗練されていること」が原則だと言われると、やはり保守的で定型に囚われたデザインになりがちかもしれません。日本国内の茶室建築に関して言えば、実のところ、ある程度その傾向があるように思われます。
かと言って、だれが自由気ままにデザインしても、数寄屋らしい侘びた風情や美しさを備えた建築になる、わけでもなさそうです。
それでも一般的に、数寄屋は本来は自由なものであり、型に従うべきものではないと言われています。
とどのつまり、どういうことでしょうか。作り手の自律性にまかせつつ、恣意性に陥らせないようにすることであって、必ずしも自由で革新的なデザインを排除するものではないと考えられます。
私論ですが、日本国外の住宅建築まで視野に入れると、この原則の本来の意図がさらに明確になる気がします。ロスアンゼルスの初期モダニズム住宅であるKings Road Houseがそのように革新的な一例と言えるかもしれません。
この住宅は、もちろん茶室ではなく、住宅として建てられたものですが、以前にもこのブログでも取り上げたように、伝統的な日本建築と全く異なる構法と材料を用いているにもかかわらず、数寄屋のように侘びた風情を感じさせる建築となっています。
もちろん曲がり丸太など特殊な自然素材の納まりはありません。厳密に秩序付けられ簡素化の創意工夫を凝らしたデザインと構法に従って建てられています。かなりの低予算であったため、徹底して合理的な規則性と、恣意性を抑えたデザインが求められたと言えます。建物高さについて言うと、わずか 2.64メートル。敷地内の草木に埋もれて表通りからはほぼ見えない建物です。
数寄屋らしい侘びた風情を持つ建築は、必ずしも日本建築の定型や伝統的構法および材料に依存せず、ほかの構法や材料でも可能なことを示す一例ではないかと考えています。
当然ですが、このKings Road Houseは、100年前のロスアンゼルスという、数寄屋の定型に全くとらわれない環境でデザインされています。設計者のSchindlerは以前のF.L.Wrightとの仕事を通じて侘びの美意識に多少は触れただろうと想像できますが、おそらくこの16世紀の原則までは知る由もなかったでしょう。
こうしてみると、定型にとらわれ過ぎずに、文化や世代の枠を越えて人の心を惹くようなデザインを創る上では、この原則は、従うべきデザイン指針というよりも、恣意性に陥いらないための倫理的な自己評価基準なのかもしれません。
言い換えるなら、建築デザインの自由は、倫理的な「善」を志向する自律を含めてこそ成立する、という原則ではないでしょうか。世代や文化を超えて多くの人の心を惹くような建築を目指す上では。
参考文献
中村昌生 Nakamura, M. (1999) 古典に学ぶ茶室の設計[ Tea Room Design: Learning from Classics], Tokyo: Xknowledge